病院が大嫌いな私

 

私は病院に行くのが大嫌いです。

お見舞いに行くのも、自分が診てもらうときでも。

 

初めての病院は特に緊張して心が憂鬱になります。

殺風景な白い壁、音楽も流れない沈黙の世界

 

看護師さんが血相を変えて小走りでどこかに向かってます。

何か患者の容体が急変したのだろうか。

その看護師さんの動きに心が落ち着きません。

 

私の人生、病院に行く怖さと、身体の痛みの強さとの競争です。

少しくらいの痛みなら我慢していれば自然と治まることがよくあります。

 

しかし、その痛みが怖さを越えた時、我慢できなくなり病院に駆け込みます。

先生に「よくここまで放っておきましたね、このままでは大変なことになりますよ。」と言われた時には心臓が破裂しそうなショックです。

 

私はどこの病院も嫌いですが、特に、歯医者さんが嫌いです。

 

少し前ですが、歯が痛くなりました。その痛みは、世の中にどんなに大変なことが

起こっていても、まずはこの痛みを治すことを優先したいと思うような激しさです。

 

最近の歯医者さんはそのことを理解していて、治療予約の時、痛みの程度を聞いて

それがひどければ優先的に治療をして痛み止めをくれるようです。

 

病院に行きました。最初にレントゲンで歯の状態を撮影します。

自分の顎の骨と歯がアップで目の前に映し出され説明を受けます。

それを見るだけでも気持ちが悪くなります。

 

痛みを伴う治療の時は歯茎に麻酔の注射を打ちますが、歯茎が腫れていたせいか

その注射の痛いこと、この注射より痛い治療があるのかと疑問に思うほどです。

 

治療の時は目隠しをしてくれるので、歯を削る機械がどんなものなのかは見たことが

ありませんが、その機械が歯を貫き心臓まで削ってしまうドリルのようなもの

であれば、それを見ただけで気絶するでしょう。見たくもありません。

 

でも先生、私の心のダイヤはちょっとやそっとでは削れませんよ。

 

 私は治療のために長い間口をあけていると、唾がたまって飲み込みそうになりますが

口を動かすと機械が口の中を切ってしまいそうなので我慢します。

我慢していると今度は唾が肺に入って咳をしそうです。

くしゃみが出そうになると命がけでくしゃみを抑えます。

 

痛いときは左手を上げて知らせてくださいと言われますが、

どの程度の痛さで手を挙げていいのかわかりません。

何度も手を挙げると治療が進まないので我慢します。

激痛の時は手を挙げるよりも、顔のほうが先に反応し、動きます。

 

治療の途中、うがいをして下さいと言われます。

口の中から血が出て、3回も4回もうがいをすると、

もういいでしょうと言われます。

 

違います、私はうがいと一緒にこころの怯えも流しているのです。

 

今日はこれで終わりですと言われた時はほっとした気持ちになります。

時計を見ると治療時間は1時間程度でしたがとても長く感じました。

 

私は治療の予約は朝一番に取ります。午後からだと午前中が憂鬱になるので。

 

通院を続けて予定の治療が終わって一安心、これで歯医者さんとは当分お別れ。

2ヶ月かけて6回の治療でした。

 

ところが、残酷にも、左下の虫歯は治りましたが、右上の奥歯にも虫歯が見つかった

ので次は右上の虫歯の治療に入りますと無情の一言。

「今日は終わりです、お疲れ様でした」の言葉はむなしく聞こえました。

 

その後、治療は終わりましたが、もう当分歯医者さんには行きたくありません。

 

また次も、「よくここまで放っておきましたね、このままでは大変なことになりますよ。」と言われるんでしょうね。

 

私の病院嫌いはどこの病院に行っても治してくれません、不治の病です。

ブログは心の写真

 

心の写真を撮ることはできるでしょうか。

そんなことはできないですね。

目にみえない心がカメラで撮れるはずがありませんね。

 

でも、私はブログの中では心の写真は撮れると思います。

 

心は外部環境によってころころ変わる。

天気のように晴れたり曇ったり、涙の雨になったり。

時には天使のようにやさしくなり、時には悪魔のように残虐にもなる。

 

ブログは写真のように心の中の真実を写す。

人に言えない悩みや苦しみ悲しみ。

人に伝えたい、喜びや楽しみ。

 

ブログの世界には自分と同じような写真がどこにもある。

読むこと書くことで少しでも気持ちが楽になればいい。

 

感動の瞬間にピントを合わせて撮ればいい。

赴くままに心に素直に撮ればいい。

色どりや派手さがなくてもピントが合えば美しい。

 

心を込めて撮ればきれいに写る、その背景には愛がある。

喜びも悲しみもブログのアルバムに残される。

 

裸の心が写ったアルバムは、現実の世界には持ち出し禁止の秘密のアルバム。

ブログの中でのみ、お互いに見せ合い、共感すればいい。

 

ブログの世界は貧乏人もお金持ちも同じ土俵で競う心の国技館

心の写真は貧富の差がない、平等の世界。

 

学校では学問は教えてくれるが心が何かは教えてくれない。

ブログは心の写真を使って、とても詳しく説明してくれる人生の教科書。

 

ブログを長く続けていけば動画になる。

動画はあなたの心の歴史となる。

 

私は他の人のブログをたくさん読みますが、私には皆さんのように上手に

ブログを書くことは全くもってできません。

とても羨ましく思います。

 

ただできることは、私の心が感動で涙が出そうになった瞬間、心のシャッターを

切ることだけです。

 

いつもブログの公開ボタンを押す前に躊躇します。

こんなブログを公開しても本当にいいのかと。

 

これからもよろしくお願いします。 

最愛の母

 

私は毎年夏休みには実家に里帰りします。

実家の近くにはお墓があり、そこには母の遺骨が埋蔵されています。

 

蒸し暑いある日のことです。私はお墓参りに行きました。

まずは墓掃除。

 

落ち葉や、雑草をきれいに取り除き、墓石に水をかけてスポンジで洗います。

こまかい部分は歯ブラシを使って丁寧に汚れを取り、布でふき取ります。

そして花屋さんで買ってきたお花を供えます。

 

やさしくて大好きだった母のことを思い出しながら両手を合わせたところ

私の耳元でぶ~んと蚊が飛び回ります。

 

気が散って母を拝むことができません。

私は手を振り回し、その蚊を追い払いました。

 

そして拝もうとするとまたその蚊が私の耳元で音をたてて飛び回ります。

しつこい蚊だと腹が立ってきました。

 

蚊 (私はこんな姿に生まれ変わってしまったけど、実は私はあなたのお母さんよ。

私に気付いてほしいから、あなたの耳元でささやいているのよ。

ねえ、あなたを想う私の熱い気持ちを感じてほしい。)

 

 私はこの蚊がなぜこんなにしつこいのだろうかと思いました。

私の血がそんなに美味しそうなのだろうか。

 

蚊 (私はあなたの血を吸ったりしないわ、ただあなたの肩の上に乗って

寄り添うだけでいいのです。)

 

私は飛び回る蚊を何度もつかみ損ねましたが、ついに片手でつかみました。

その蚊は私の握力で少し弱ったようです。

 

蚊(私はあなたに危害は与えません、どうか私を逃がしてください。

ただ、親愛なるあなたのそばで、そっと、ぬくもりを感じたかっただけです。)

 

私はこの蚊が逃げないようにと力いっぱい手を握りしめました。

しかしながら、指と指の隙間のおかげでまだつぶされないで生きています。

 

蚊(私は、自分が生み育てた愛する我が子に、このように殺されようとしていますが

最後に身をもってあなたに、愛の意味が何かということを伝えます。

一寸の虫にも五分の魂があるということを忘れないでほしい。)

 

今度は手を開き、隙間ができないように両方の手のひらでぐっと押さえました。

両手を離すと無残にも押しつぶされた蚊がいました、ふっと息を吹きかけると

風とともにどこかへ飛んでいきました。

 

 

 私は邪魔で気を紛らわす蚊がいなくなったので両手を合わせ、心のなかで

つぶやきました。

 

「お母さん、あなたはとてもやさしく、私の最愛の人でした、せめてもう一度

だけでもいいからあなたに会って、あなたの愛のぬくもりを感じたいのです。」

 

 とても悲しいお話ですね。

もしかしたら、実はあなたのまわりには姿を変えた先祖の魂がたくさん

いるかもしれませんよ。 

丸裸のお母さん

 

私の会社の同じ部署に、仕事ができなくてミスばかりする女の子がいます。

彼女は他の人に相手にされないからか、私と気が合うのかわかりませんが

よく話しかけてきます。

 

私の部署は交代で休憩をとるので、よく彼女と二人きりになります。

他に誰もいないので遠慮なく話します。

 

彼女は家の中のことを主に話します。

お父さんとお母さんと彼女の3人家族です。

お父さんは出張が多く、月の半分くらいは家にいないそうです。

 

日々、専業主婦である彼女のお母さんが主人公の家庭ドラマが展開されます。

 

お母さんは、お父さんが出張でいないときは朝寝坊して、彼女の朝食の準備が

間に合わないので何も食べずに仕事に来ることがしょっちゅうあるそうです。

 

自分の布団を外に干したまま昼寝をしている間に突然の大雨、目が覚めると

布団がびちゃびちゃ、その夜、彼女の布団に入り込み、一緒に寝たそうです。

 

夜の食事時、お母さんはお酒を飲んで気持ちよくなり、後片付けが面倒になり

そのままうとうとして、彼女に後片付けをさせるそうです。

 

家の中では、彼女の目の前でぶりっと平気でおならをするそうです。

 

彼女が仕事が休みの日、気分が乗らないと言って、彼女に掃除・洗濯を

させて自分はテレビを見ているそうです。

 

私には給料は無駄遣いしないで貯金しなさいと言いながら、お母さんは

お昼には、よく友達とランチに行くそうです。

 

私はこのドラマを聞くのが楽しみになりました。

昨日はどうだったのとこちらから聞くこともあります。

 

話を聞いているうちに、お母さんの性格や行動がすべてわかったような気が

してきました。なんてずぼらな専業主婦だと思いました。

一度、どんな顔をしているのか見てみたくなりました。

 

ある日、仕事の最中、彼女のお母さんが何かの用事があったらしく

彼女を呼んでくれと尋ねてきました。

 

私は彼女にいつも話を聞かせてもらっているのだからご挨拶してもいいかと

聞くと、彼女はいいよと言いました。

 

初めて彼女のお母さんと会いました。

私は驚きました。想像していたお母さんとは全く別人です。

私の頭の中のイメージでは、ぼさぼさ頭で肥満型でだらしなさそうな人。

 

ところが目の前にいる人はきちんとした見なりでスマートで上品そうで、

どちらかというと美人の部類に入りそうな人です。

 

私が、丸裸になったようなお母さんのことを娘からいつも聞いているのを

知らないで

 

「いつも娘がお世話になっています」とすました顔で言う彼女を見ると

上品ぶった外見と家にいる時のだらしない中身の差があまりにも違うので

 

 思わず吹き出してしまいそうで、それを抑えるのが大変でした。

わたしの心の中では大爆笑。いつものあなたはどこに行ったのかと。

 

普通だと、人の外見を見てからだんだん中身を見ていくのですが、

今回は人の中身を先に見て外見を見るという貴重な経験をしました。

 

人は外見だけで判断してはいけないということが十分わかりました。

私にとても厳しい人

 

私は人より仕事が遅く、時間をかけて何とか仕事をこなしていました。

そのため、会社にはいつも一番早く出社して仕事をしていました。

 

私は能力のなさを補うために、額に汗をかきながら時間をかけてもきちんと

仕事をやり切っていました。

そんな姿を見て、人情味のある上司は、よく頑張っているとほめてくれました。

 

ところが人事異動でその上司に代わって、別の上司が赴任してきました。

見かけは優しそうな人ですが、実に厳しい人でした。

 

私の仕事のやり方をすべて否定するのです。

 

まず、仕事場の物の置き方です。

整理整頓ができていない、きちんと場所を決めて元に戻せとか、

よく考えて、仕事がしやすいように要らないものは捨てろとか。

 

机の上の電卓やボールペンの置く位置まで決めさせられます。

ただでさえ仕事に時間を取られているのに、さらに面倒なことをさせるのです。

 

次に、仕事の順番です。

今やっている仕事をすべて書き出せと言う。

期限のある仕事の優先順位を決めて、重要な仕事からやれと言う。

 

期限がなく無駄な仕事はやらなくてもいいと言う。

また面倒なことを言うのです。

 

そのほかにも、誰のために仕事をしているのか考えろとか、その仕事の

やり方はそれでいいのかといちいちうるさい。

それでもいやいやながら、頑張って何とか鬼上司に従いました。

 

私は毎日がとてもつらく、前の上司はとてもやさしかったなと思いました。

 

数か月が過ぎ、ボーナスの金額がきまる人事評価の時期が来ました。

ランクはAからEまでの5段階評価、これだけ我慢してきたのだから

 

すこしはいい評価が付くと期待したところ、今までもらったこともない

最悪のE評価。前より頑張った結果がこの評価でした。

私はこの上司を血も涙もない人情なしの鬼だと思いました。

 

結局、私は一年後、人事異動で他の勤務地に変わることになりました。

 

この頃には上司の考え方にも慣れてきて、仕事のスピードも

人並みくらいに早くなっていました。

 

でも、仕事のつらさは変わりませんでした。

この上司から解放されると思うとうれしくてうれしくてたまりませんでした。

 

最終出社日に仕事を終えて、その上司にあいさつに行ったところ、

ちょっと待ってくれと言うので何かと思うと、メッセージが添えられた

きれいな花束を渡してくれました。

 

鬼の目にも涙か。

 

家に帰ってそのメッセージを読みました。

 

「私は最初あなたの仕事ぶりを見てその誠意はとても素晴らしいものだと思いました。

誰よりも早く出社し文句も言わず、黙々と働く、愛社精神あふれる仕事ぶりでした。

 

でも、あなたの将来のことを考えると、今の仕事のやり方ではいけない、何とかして

あげなければならないと思い、私は大きな愛をもってあなたを厳しく鍛えました、

 

辛かったでしょうが私にできることはすべてやりました。あなたはよく頑張りました。

私はこれからあなたが幸せな人生をおくれることを心より願います。」

 

私は涙が出ました、本当のやさしさの意味が、今、やっと分かったのです。

愛がなければ仕事に厳しく人にやさしくはできませんね。 

その時の気持ちがいままでのブログを書くのにとても役立っています。

服装と人格

 

今日はどんな洋服で出かけようかといつも悩みますね。

暑さ寒さによっても違いますし、出かける場所によっても違います。

 

仕事のある日、休みの日によっても違います。

また、晴れの日、雨の日、その日の気分によっても違います。

 

銀行員、保険外交員、不動産販売の営業員など信用が重んじられる職業の人は

特に服装には気をつけなければなりませんね。

 

同じスーツ姿でも、身なりには十分気をつけなければなりませんね。 

きちんとアイロンのかかったワイシャツに、折り目の付いたズボン、

その清潔感が信用力をアップさせるんですね。

 

私の友人が上司に、「君は中身がないんだから、特に服装には気をつけるように

と」いつも言われているようでした。

 

しかし、IT系の若い社長でいつもTシャツで仕事をしている人がいますね。

自分の能力には人一倍自信があり、 服装にはこだわらないのでしょうね。

私がTシャツで仕事をすれば、今日はお休みですかと言われそうです。

 

会社や学校には制服があるところがたくさんありますね。

これって、選ぶ必要がないのですが、似合う人と、似合わない人がいます。

同じ制服でも、清楚に着こなして上品に見える人もいれば、制服に負けて

見劣りする人もいますね。

 

旅行で温泉に行くことがあります。もちろん、みんな裸でお風呂に入りますね。

雑誌などで見るきれいな裸の写真は特別に選ばれた人の世界。

 

体格にはいろいろありますが、お風呂で裸で歩く人の姿を見ていると、

なんともみすぼらしく思うのは私だけでしょうか。

もちろん私も裸でそこに積極的に参加しています。

 

服を着るのは寒さを防いだり、怪我から身を守ることもありますが

その人に合った服装は人格を高めるように思います。

 

会社でいつも高級そうな服を着ている女の子がいるので、高い服を着ているねと

声をかけると、売れ残りのバーゲンで買ったと言います。

きれいな子は何を着ても上品に見えますね。

 

私だって何を着ても高級な服に見えますよ。

なぜならば、私が下品で貧相なので、どんな安い服を着ても服が引き立ち

とても素晴らしく見えるのです。

私にはスーツよりは作業着のほうがよく似合います。

 

また、服装によって気分は大きく変わります。

純白のウェディングドレスとよれよれのパジャマ、どちらを着るかで

その気分は天地のごとく違ってきますね。

 

わたしはブログの世界では裸のこころで書いていますが、読み返すと、とても

恥ずかしく、まるで結婚式にパジャマで出席しているような恥ずかしさです。

質素でいいから、私のこころを隠す洋服を着させてあげたいといつも思います。

 

夜空に輝くきれいな星

 

心って、燃えたり、凍ったりするんですね。

情熱溢れる熱い心、冷酷非情で冷たい心。

体温計では測れない心の温度。

 

お天気のように晴れたり、曇ったりもするんですね。 

モヤモヤの晴れた明るい心、沈んで憂鬱な曇った心

照度計では測れない心の明るさ。

 

心って何でしょうね。

 

ほかにも、澄んだ心と濁った心。

開いた心と閉じた心。

広い心と狭い心。

強い心と弱い心。

 

顔の表情のように、その時、その時によって常に変化するものなのでしょうか。

 

心って目に見えないのに大きな存在ですね。

脳で刺激を受けて、それが心臓に伝わり、心となって変化するのでしょうか。

 

強い刺激は心臓に伝わると感動が生まれますね。

その感動で、体中に電気が流れ、鳥肌が立つこともあります。

 

人と人との心の振動数が一瞬でも同じになれば、共振し共感となり

その振幅が大きくなれば感動が生まれると思います。

 

胸がときめくのはドーパミンの分泌により胸がキュンとするからのようです。

女性が恋をするときれいになると言われますが、この胸がキュンとすることで

血流がよくなり肌がきれいになり、顔のくすみやクマが軽減され

肌も、よりきれいさに磨きがかかるようです。

 

思いきり泣くことで心も身体も健康になると言われています。

心に悲しいことや辛いことをため込み、それを我慢することでストレスを感じて

いる方がいますが、涙を流すことで、心や体をリラックスさせる副交感神経が

優位に働くようです。

 

心と身体は一心同体となることでより強くなるような気がします。

心身ともに健康なのは人生最強の武器、お金よりも大切です。

 

結局、心の正体はよくわかりませんでしたが、心に刺激を与えることで感動が

生まれ、心が成長し、イキイキとした人生が送れる。

 

心の共感は人への思いやりを気付かせて、人にやさしくさせてくれる。

 

心とは、磨けば輝く、ダイヤモンドの原石の入った宝石箱のような気がします。

 

私の心も優しく磨かれて、夜空に輝くきれいな星のようになりたい。

 

その輝くひかりで、私の愛があなたに伝わりますように。

こころは今でも生きている

母「お腹がすいたから朝ごはんにしましょう。」

娘「何言っているのご飯はさっき食べたばかりでしょう。」

母「今朝はまだ何も食べていない、なんでそんな事言うの」

 

母「ところで今何時、時計を見て頂戴」

娘「さっきから何回同じこと聞くの、もう5回目よ」

母「そんなに何回も聞いていない、これが初めてよ」

 

母「私の財布がない、誰か私の財布を盗んだ人がいる、捕まえて。」

娘「この前も、大騒ぎして結局、机の中にしまい込んでいたじゃない。」

母「私は財布を確かにこの場所に置いていた。絶対盗まれたに違いない」

 

母「さっき、お父さんがここに来て、一緒に散歩しようと誘ってくれたよ。」

娘「お父さんはもう、5年も前に亡くなったのよ、変なこと言わないで。」

母「本当にお父さんが目の前に現れてやさしく誘ってくれたのよ。」

 

母「助けて、私は殺される、怖い、何とか私をここから連れ出して。」

娘「どうしたの、なぜあなたは突然、別人のようになって暴れるの。」

母「私は誰かに襲われる、近くに隠れて私を待ち構えている。」

 

 認知症になった人の気持ちはなかなか理解できないですね。

こころの中がどうなっているのか若い人には特にわからないかもしれません。

でも、同じ人間として優しく接してあげることが必要だと思います。

 

 

 母「あなたはいつも私のことを叱るけど、どうして叱られるのかわからない。」

娘「お母さんはどうしてこんなにおかしくなったの。以前のようにしっかりして

ほしいのです。何とか元のお母さんに戻ってほしいからよ。」

 母「私は何も変わっていない、変わったのはあなたのほうです。」

 

母「私は人格を否定されたようでこころが傷つく。なんで私をいじめるの。

  どうして今までどおり優しくしてくれないの。」

娘「もうあなたのこころは別人です、何もかも変わってしまいました。

     とても昔のやさしくて聡明だったお母さんとは思えません。」

母「何を言っているの、私はあなたが生まれたころ、おむつを替えたことは

  よく覚えているし、桜の咲く時期、一緒に小学校の入学式に行ったのも

  よく覚えている。ただ、最近、脳の回路がうまく繋がらないときもあるけど

  むかしの思い出はしっかり覚えています。こころは変わっていません。」

 

母「人のこころを理解するのはとても難しいこと。なって見なければわかりません。」

娘「私はお母さんの最近の異常な言動に驚きを隠せません。」

母「あなたにきつく叱られることで私のこころは悲鳴を上げています。」

 

 母「あなたに私の気持ちはわからないでしょう。だんだん頭が混乱して

記憶がなくなっていく恐怖の心境を。とても悲しく辛い毎日。」

娘「お母さん、私は理解不足でした、あなたがそんなに苦しんでいることを。」

母「さすが血のつながった我が娘、こころが繋がってほっとしました。」

 

母「私の頭が混乱して何を言っているのかわからないときは、話を合わせてくれる

  だけでいいの、それでこころが落ち着くから。」

娘「お母さん、あなたのこころは今でも生きているんですね、本当にごめんなさい。」

母「私も人間、頭はボケても、きつい言葉にはとてもとても傷つくのよ、そんな

  気持ちをわかってくれてありがとう。」

 

寂しく憂鬱な日

 

 梅雨で天気の悪い日が続く毎日ですが、私の心も曇りがちです。

私はなぜか心が寂しく憂鬱になるときがたまにあります。

 

気晴らしに、カフェに行き、行き交う人が見える、窓側の席に座りました。 

注文したアイスコーヒーを飲みながらぼんやり外を眺めました。

 

一人寂しく下を向き、元気のないように見える小学生が通り過ぎる。

とても落ち込んでいるような気がする、この子はいじめは大丈夫だろうか。

心身ともに一定の範囲内でなければ集団で攻撃される的となることも。

日本では、アマゾンのジェフ・ベゾスやテスラのイーロン・マスクのような

自由な発想で個性的な子は仲間外れになり、徹底的にいじめられるかもしれない。

 

高校生のふたりの女の子が英語の本を見ながら何か話している、テストがあるのかも。

思い出す、私が高校の英語の授業の時、文章の流れに沿った私の気持ちを込めた

英文和訳は、英文法と英和辞典の型にはまった和訳でないと否定された。

今でもそうだろうか、多様性が受け入れられにくい島国ニッポン。

 

リクルートスーツを着た若い子が暗い顔をして歩いている。

6月からの就活解禁のための準備をしているようで不安そうである。

新卒、一括採用の日本の会社、ここで失敗したらその後の人生大きく変わる。

敗者復活戦が難しい日本社会、若いうちの失敗も許されない。

そもそも、自分が何に向いているのか、企業が何を求めているのかもわからないのに。

 

楽しそうに手をつないで歩く若いふたり、将来結婚するのだろうか。

今や3組に1組が離婚すると言われる時代、シングルマザーのうち多くが貧困家庭。

貧困家庭の子供は大人になっても、また貧困が続くことが多いと聞く。

たまたま貧困家庭に生まれた子供はかわいそう。その子の将来を思うと心が痛む。

 

シンプルな服装の30歳前後の女性が悲痛な顔をしてトボトボ歩いている。

コロナ禍で、非正規雇用の割合が高い女性は、不景気で首を切られる人が多いと聞く。

生活費の多くを占める家賃が払えるのか心配。ネットカフェでの生活はやめてほしい。

 

 40歳過ぎの男性、就職情報誌を片手に、スマホで電話しながら急いで歩く。

日本では、40歳過ぎて失業すれば、いくら人間的に立派であっても、努力家でも、

非情にもガラクタのように扱われる。人の価値とは何かと考えさせられる。

 

70歳位のお爺さん、寂しそうにあてもなくゆっくりゆっくり歩いている。

企業の成長・繁栄のためにバリバリ頑張って働いてきた企業戦士も、現役引退で

一人暮らしになれば、世間から離れて話し相手もいない、一人寂しい孤立老人。

そこにつけこむ悪徳セールスマン、情け話でコロッと騙される。許せない。

 

その日はなんだか落ち込んでいて、気持ちがとてもとてもとてもネガティブでした。

元気な人もたくさんいるのでしょうが、つらそうな人ばかり見えた時間でした。

今度はアイスコーヒーではなくこころ温まるホットコーヒーを注文したいと思います。

愛の飢餓

 

テレビを見ているとよく近所の人へのインタビューの場面がありますね。

 

インタビュアー「今回近所であった、殺人事件のことご存じですか」

 

近所の人「ええ、知っていますよ、驚いています。」

 

インタビュアー「容疑者がどんな人物だったのか知っていますか」

 

近所の人「よく知っていますよ、いつも笑顔であいさつしていたし、

優しく真面目そうな人で、子供が好きでよく子供と遊んでいました。

まさかあの人がこんなことをするなんてとても信じられません。」

 

こんな場面を見るたびに心が痛んで涙が出ます。

どうしてこんな驚くようなことが起こったのでしょうか。

 

私は世のなかに悪人はいないと思っています。

善人と善人とがぶつかり合ってもその中から憎しみが生まれる。

欲がある限りいつも悲劇が生まれる。

 

私は他人ごとではないと思いました。

 

私は長年今の会社に勤めていますが、能力がないので時間をかけて

汗をかきながらでもきちんと仕事をやり遂げていました。

もちろん人一倍愛社精神はあります。

 

ところが不景気のせいで会社の業績が落ち込み、私より少し能力があっても

会社の悪口ばかり言って、手を抜いて仕事をしている若手社員が残り、

私がリストラされるとしたらどうでしょう。

私にも家族があり、辞めさせられたくはありません。

 私は会社を怨み、会社に火をつけるかもしれません。

 

世のなかには理不尽なことがたくさんあります。

人が生きていくことは大変なことです。

 

でも、私は思い直しました。

人はしばしば自己中心になり、争いがおこります。

 

もし、善人と呼ばれる人たちの心に愛があったらどうでしょう。

与えられる愛ではなく与える愛です。

 

そうしたらこのような事件は起こらなかったでしょう。

私はたとえ人に裏切られてつらくても、それでも愛を貫かなければ

ならないと反省しました。

 

今の世の中、食べものに対する飢餓よりも、愛に対する飢餓のほうが

大きいように思います。

ブログはこころの友

あなたには親友と呼べる人はいますか? 

親友って何でしょう?

 

読んで字のごとく親しい友達のことですね。

親のようにやさしく包んでくれる友達かもしれませんね。

 

親友とただの友達、どう違うのでしょうか?

 

一方通行の親友。

あなたは私の親友ですか、ただの友達ですかと聞けますか?

 

時には親友、時にはただの友達。

なんでも話せるのが親友と言っても、時には話せないこともありますね。

 

親友は何人いるかと聞かれてもわからない。

そもそも、親友って複数いてもいいのだろうか、男女関係では浮気となりますね。

 

わたしはそんなに厳密に線引きしなくても仲が良ければそれでいいと思います。

 

ところで、親友を見つけるのにはどうしているのでしょうか?

 幼なじみの中から、学校のクラスメイトの中から、職場の同僚の中から

など考えられますが、それって一部の限られた人の中から探していませんか?

 

日本には1億2千万人の人口がいるのに、周りにいる、わずか数百人か数千人の

なかから探していませんか?

それも、心の中を見ないで外見だけで判断して、除外しているかもしれません。

 

日本のどこかに、あなたの親友として最もふさわしい人がいるのに

巡り合えない、そんな事ってつらくないですか?

 

でも、ブログの世界は、日本中のこころが集まっていて、何度も更新されています。

読者になれば、深く深くそのこころがよくわかります。

人に会うのは地理的に難しくてもブログの中では、いつでも誰とでも会えます。

 

  ブログの中に、裸のこころで、楽しいこと、悲しいことすべてさらけ出せば、

 

 どこの誰だか知らないけれど、わたしのことを世界で一番理解してくれる、

 

そんな心友が見つかるかもしれない。

 

 そんなすてきな世界がブログの魅力ですね。

あこがれの都会

 

私が住んでいるところはクルマがないと通勤が不便に思えるような田舎です。

私は東京、横浜、名古屋、大阪、博多などの都会に憧れます。

 

東京には出張で数年に一度くらいしか行くことはありません。

仕事で行くのでほとんど見物する時間もなく、とんぼ返りです。

 

超高層ビルタワーマンション眠らない街新宿、ファッションの街原宿竹下通り。

そのほかにも魅力のある場所はたくさんあるでしょう。

 

私の住む町は、まむしにご注意の看板が立つ田舎道、カエルの声がうるさい田んぼ道。

夜は8時にもなれば、誰も歩かない、寂しいところ。痴漢にご注意の注意書き。

 

私が学生時代、都会、特に東京に憧れ、私のような田舎者と東京の人は

人種が違うような気がしていました。

 

方言と東京弁東京弁と標準語は同じだと思っていました)やファッションセンスの

大きな違い。

 

おしゃれな服装にスマートな言葉使いですてきなレストランでの食事。

まるで映画に出てくるようなシーンが東京の日常なのかなと思っていました。

私は東京に住む人はみんな芸能人のような気がしていました。

 

今ではインターネットで都会も田舎も情報は、ほぼ同時に入ってきます。

今はもう学生の頃のような幻想はないのですが、でも、実際住んでみて

私の住む田舎とどんなに違うのか一度体験してみたいと思いますね。

 

 

 

私は他の人の書いたブログを読むのが大好きなのでたくさん読みますが、

これって住んでいる場所に関係なく、人の気持ってみんな同じように

 喜怒哀楽があって共感することがたくさんありますね。

 

もしかしたら田舎者生まれの田舎育ちの私のブログを、憧れの都会の人が

読んでくれるかもしれないと思うとワクワクします。

 

ブログって楽しいですね。

悲しい運命

 

もう10年くらい前の話ですが、私が人事異動で新しい勤務地に赴任した時、

そこには100人くらいの従業員がいて、少しずつあいさつ回りをしました。

 

そのなかで飛びぬけて明るく親しみやすい人物がひとりいました。

初対面の私にまるで友達のように馴れ馴れしく話しかけてきます。

 

とても元気なおばちゃんという感じで、歳を取ればこんなふうに遠慮が

なくなるのかなと思いました。

 

数日後、彼女が仕事をしているのを見たところ何かぎごちないのです。

作業する手元を見ると、左手の親指がないんです。

 

彼女は私の視線に気が付いたようで、これは私が二十歳の頃、交通事故で

なくなったと言う、そして、それだけではなく、左目も失い、義眼だと言う。

 

その当時、彼女の両親は、嫁入り前のわが娘の運命をひどく悲しんだと言う。

私は死んでしまいたかったが、両親を悲しませたくないのでいつも笑顔で

何もなかったように振舞ったと言う。

 

その後、物好きな男がいて私と結婚してくれたと、あっけらかんとして言う。

その旦那も、数年前、病気で亡くなったと言う。

 

今、彼女は一人娘とペットの子犬と一緒に暮らしていると言う。

子犬がよくなついてまるで自分の子供のような気がすると言う。

 

彼女は一日4時間勤務のパートタイムで働いています。

夕方は晩御飯の料理を作りながら毎日缶ビールを6缶飲むと言い、

できたころにはもうほろ酔い気分と言う。

 

年に2回の自社商品の販売コンペでは常にトップの成績を残しています。

どうしてこんなに売れるのかと聞くと、私にはこころの通じ合う友達がたくさん

いるので、声をかければすぐ買ってくれると言う。

 

私は思いました、こころに大きな傷を負った彼女は、そのつらさを乗り越え

大きく成長し、人の何倍もの優しいこころが養われたのでしょう。

 

3年後、私は他の勤務地に異動することになりました。

お別れに、彼女は私に生食用のカキを食べてくれと渡してくれました。

 

レモンをかけると甘酸っぱく、濃厚な味は彼女の人生の味そのものでした。

今でもその味はこころに残っていて忘れることはできません。

現実とブログの世界

 

 

私の書くブログは気持ちが盛り上がったとき、勢いで書いてしまうので

公開した後、落ち着いて自分のブログを読み返すと、恥ずかしさに耐えられません。

 

その記事を過去のものにして、新しい記事で隠してしまおうと次のブログを書きます。

そんなことを続けてきたので、わたしのブログは恥の宝庫です。

 

ところで話は変わりますが、私の職場にはとても元気がいい女性がいます。

他の部署の女性なので話をすることはほとんどないのですが、食事の時間が

一緒になることがよくあります。食堂の離れた席にいても、大きな声で

しゃべるので何を話しているのか全部聞こえます。

 

4,5人の仲間と食べていますが、よくしゃべり、中心的な存在です。

よく笑い、感情をこめて、楽しそうに話しています。

同じ従業員の悪口は全く聞いたことがなく、とても人柄がいいように感じます。

 

あるとき、たまたまその女性と仕事で,ふたりきりになったので、冗談で、

「あなたはいつも食事中、元気で楽しそうに話をしているけど、悩みはないの?」

 

と聞いてみると彼女は「私には悩みは全くありません」と言う。

そして「なんで私にそんなことを聞くのですか」と切り返してくる。

 

私は予期せぬ返事にドキッとし「あなたにはつらい過去があってそれを

紛らわすためにわざと明るく振舞わっているように見える」と反射的に

言葉が出ました。

 

すると彼女は黙って私のもとから離れていきました。

いけないことを聞いちゃったかなと反省しました。

 

しかし、次の日から朝は笑顔であいさつしてくれるようになり、

 彼女は急に私にやさしい態度で接してくれるようになりました。

 

なぜかこころが通じたような気がします。

もし、彼女がブログを書いていたらその心の中をぜひ読んでみたいと思いました。

どういう過去があっていまどんな気持ちなのか興味がわきました。

 

でも、ブログってどこの誰が書いたのかわからないのがいいのであって、

誰が書いたのか知られたら、丸裸を見られるようで恥ずかしいですね。

 

このブログが私が書いたものだと特定されたら私は恥ずかしくてとても

世間に顔向けできなるでしょう。

 

現実とブログの世界を一緒にしてはいけませんね。

 

 

友達の関係でいましょう。

 

世の中には失恋して悲しくて、切なく思うドラマや小説がたくさんありますね。

でも、失恋される方(振ってしまう方)の気持ちのはあまり描かれませんね。

 

悲しくてやり切れない、胸が締め付けられてこころが痛む。 

やはり失恋した時のほうがこころの落ち込みが大きいのでしょうね。

 

 一方、愛を告白された方はどうでしょう。

 

ほとんど恋愛感情もなにもないのに突然愛を告白されるのです。

愛情も何もあったものではありません。あるのはただ驚きだけ。

 

情熱を持って告白されても急に愛が芽生えるわけではありません。

土足で私のこころの中に入ってきてもらっても困ります。

 

あなたの愛が強いほど、私のこころがよごれてしまいます。

わたしのこころの中には、燃える油はありません。

 

でも、あなたの燃え盛るこころの炎を消してあげなければ同じ人としての

愛はありません。

燃えあがる炎が大きければ大きいほど消すのが大変。

 

でも、一番小さい消火器を使って時間をかけてやさしく消すことが大切。

失恋経験のない人は、無情にも、大きな消火器で一気に消すかもしれませんね。

 

誰が考えたのか知りませんが、友達の関係でいましょうという名言。

優しいようで一番傷つく魔法の言葉。

 

万人への愛とあなたひとりへの愛は違うのでしょうか。

 

いいえ、万人への愛と万人への愛のピントが合った瞬間、そこに恋愛が生まれる。

ピントが合っていないから悲劇が生まれるんです。

 

私はいつも振られる立場だったので一度こんなこと書いてみたかったんです。

 

ブログって何でも書けるので楽しいですね。