お麩の吸い物

 

おばあさんが家族に連れられて老人ホームにやって来ました。

実の息子は、情けない自分の気持ちを抑えきれませんでした。

 

自分のふがいなさで、母親を自分たち家族で面倒をみることができない

ことをとても辛く思いました。

 

息子夫婦は共働きで、年々老いて弱っていくおばあさんの面倒をみることが

できなくなりました。

 

困った息子は嫁に相談して、辛いけれどこころを鬼にして、泣く泣く母親を

老人ホームに入れることにしました。

 

家族が帰ったあと、老人ホームに残されたおばあさんはとても寂しく落ち込みました。

お昼になり食事の時間となりましたが、まったく食事が喉を通りませんでした。

 

気の知れた家族と一緒の食事と違って、周囲を気遣いながら見知らぬ人との食事は

暗くて冷たい感じがしました。

 

結局彼女は、一口も食べることはなく、自室に戻り悲しくて号泣しました。

 

そのうち、心配した介護職員になだめられ少しずつ食事をするようになりましたが

何を食べてもまったくおいしく感じることはありませんでした。

 

突然の気の休まらない集団生活に、年老いた彼女はなじめませんでした。

 

ところが彼女が入所して1週間後に、彼女より5歳くらい年上の女性が彼女の

隣の部屋に入所してきました。

 

食事の時、彼女の隣に座ることになりました。

 

年上の女性も彼女と同じように、入所したばかりの不安な気持ちで、食事をとる

ことができませんでした。

 

彼女は、自分と同じような気持ちを持つ年上の女性に、話しかけてみました。

年上の女性は同じ気持ちを持つ彼女に共感し、ふたりはすぐに仲良くなりました。

 

自分たちには未来はないけれど、今を何とか耐えましょうとふたりはお互いを

慰め合いながら、辛いながらも施設の暮らしに慣れようとしました。

 

それから数か月後のことです。

外は大雨で雷が鳴る嵐の日のことでした。

 

彼女がいつものように朝の食事のために食事スペースに行ったところ、

いつも一緒に食べる年上の女性が現れませんでした。

 

お昼になっても現れませんでした。

彼女はとても心配になって介護職員に、彼女はどうしたのかと聞きました。

 

すると介護職員はとても悲しそうな顔をして、彼女は昨夜遅く脳梗塞で病院に

運ばれたが、治療の甲斐もなく亡くなったと言いました。

 

昨夜まで一緒に仲良く食事をしていたので彼女には信じられませんでした。

 

辛い気持ちをふたりで共有しながら頑張っていた年上の女性の死を悲しく思いました。

彼女は唯一の友を失い、絶望のどん底に落ちました。

 

こんな気持ちでこれから生きていくのは辛い、彼女は年上の女性の後を追って

死んでしまいたいと思いました。

 

そのとき、施設の近くに雷が落ちました。

その稲光と轟音で彼女のこころに強い光りと震えの衝撃が走りました。

 

その瞬間彼女はハット気付きました、いつまでもこのまま沈んだ気持でこの施設で

暮していては何もいいことはないと。

 

彼女はどうせこの施設で死ぬまで暮らすなら、楽しく愉快に暮らした方が絶対に

いいと思いました。

 

彼女のこころの変化は、今まで気付かなかった身の回りのことを気付かせました。

 

その日の昼食には、あっさりとした薄味のお麩の吸い物がでました。

 

それを飲んだ時、彼女は、今まで全然おいしく感じなかった食事に温かさと

おいしさを感じ、とても驚きました。

 

お麩の吸い物は彼女に、人生のおいしさを味わいなさいと教えてくれたのです。

 

そして周りを見ると、今まで気付かなかった、壁に飾ってある雄大な富士山の絵や

花瓶に生けられたきれいな真っ赤なバラに気付きました。

 

今まで閉じていた彼女のこころの窓が大きく開いたのです。

 

彼女はそれ以来、活発になり、ほかのお年寄りに積極的に声をかけ仲良くなり、

 

毎日のラジオ体操では一番前に出て大きな声を出し、元気に身体を動かしました。

様々なレクレーションにも積極的に参加し、施設での生活を思いきり楽しむ

 

ようになりました。

 

春には次の冬のために手編みのマフラーを作り始め、生きる意欲が出てきました。

 

彼女は施設に入所した当時とはまったく別人に変わりました。

今では、施設で一番、笑顔の絶えない元気なお年寄りになりました。

 

人は考え方次第で、絶望の人生でも希望の人生へと大きく変わるんですね。