女性支店長と男性の私

 

私は今の会社では、出世とは全く無縁な人間です。

同期で入社した多くの人は、様々な部署で活躍しています。

 

多くの部下を持ち、そのリーダーとして責任を持って仕事をしている人もいます。

 

私は元々能力もなく、出世意欲もないので後輩社員が上司となることもあります。

 

そんな場合でも、別に構いません、逆に、年下の上司の方が私に気を遣うことが多く、

私は気の毒に思うことがあります。

 

上司が何を望んでいるのか、先輩の私は上司の気持ちがよくわかりますから、

仕事上で特に問題になることはありません。

 

しかしながらこれは同性の場合です。

 

もう10数年前のことですが、私のいた支店の支店長が異動となり、新しく

女性の支店長が代りに赴任してきました。

 

それまで彼女は、本社の人事部で新入社員の採用や入社後の研修などの

責任ある仕事の一部を任されていたようです。

 

その実績と経験を買われ、新たに、私のいる支店の支店長に抜擢されたようです。

 

私は女性の支店長の下で働くのは初めてでした。

彼女は私よりは年齢は7歳くらい年上でした。

 

年下の男性上司とは違って、初めての女性支店長とどのように接したらいいのか

わかりませんでした。

 

私は、たぶん、女性の支店長だから今までの流れを引き継いで、おとなしい仕事ぶり

だろうと思いました。

 

ところが実際は、今までの男性支店長とはまったく仕事のやり方が違っていました。

そしてそれは、男性支店長より仕事に厳しいのです。

 

新人教育のように、鉄は熱いうちに打てと言わんばかりに厳しいのです。

特に、社内規則やマニュアルに関しては徹底して教育しました。

 

出世には無欲でマイペースな私に対しては、特別厳しかったと思います。

箸の上げ下げを注意されるように、細かく徹底的に再教育されました。

 

最初はとても辛い日が続きました。

私は何度も何度も厳しく教育され続けました。

 

しかし日が経つうちに、だんだんその厳しさが愛に変化するのがわかりました。

まるで母親に、子供の自分が、愛を持って育てられるような気持ちでした。

 

仕事の出来ない私を見て、彼女は母性本能をくすぐられたのでしょうか。

 

彼女の仕事ぶりに、同性である女性社員は気持ちが合うのか尊敬していたようでした。

 

ところが男性社員の多くは、表面的には彼女に従っていましたが、こころの中では

あまり面白く思っていないようでした。

 

彼女はあまりにもドライで、男性支店長のように人間味を感じなかったのかも

しれません。

 

彼女はそんな男性社員の気持ちを、その態度から薄々感じ取っていたのでしょう。

私は何かの拍子に一瞬顔に出る、困惑した彼女の表情からそれを感じました。

 

女性が男性の上に立つその気持ちが、何となくわかるような気がしました。

 

仕事が出来ない私ですが、なんとか彼女の役に立ちたいと思いました。

 

冬の寒いある夜のことです、私が仕事を終えて帰ろうと事務所に入ると、

支店長の彼女はみんなが帰った後、一人残って、黙々と仕事をしていました。

 

私はそっと彼女の机のそばに行き、仕事の邪魔にならないように温かいコーヒーと

一枚のメモを机の隅っこに置きました。

 

すると彼女は驚き、私の顔を見上げた後、私が書いたメモに目を落としました。

 

じっとそのメモを見つめる彼女に、冷めないうちにコーヒーをどうぞと言うと、

再び私を見上げ、目が合いました、その目にはうっすら涙がにじんでいました。

 

そして私に一言「ありがとう」と言いました。

 

そのメモはいつか彼女に渡そうと用意していたメモです。

 

「あなたに出会った人がみな、最高の気分になれるように、親切と慈しみを込めて

人に接しなさい。

あなたの愛が表情や眼差し、微笑み、言葉にあらわれるようにするのです。」

 

これはマザーテレサの名言のなかのひとつです。

 

私の気持ちが彼女に届いたのでしょうか、それから彼女はだんだん人間味のある

人間に変わっていったような気がします。

 

それから彼女は数店舗の支店を経験し、本社に戻り、今では、当社初の

女性人事部長として活躍しています。

 

今では私にとっての彼女は、雲の上の存在ですが、私が会議で本社に行ったとき、

出会えばいつも笑顔で、「どう、元気でやっている?」と声をかけてくれます。

 

私の仕事ぶりをよく知っているせいか、私を出世させてはくれませんが。

 

その時以来私は、たとえ立場や性別は違っても、同じ人間、こころは通じる

ものだとわかりました。

 

愛は地位や身分に関係なくすべてに平等なのです。