ありがとうの言葉

 

私が若い時の、結婚したころのお話です。

 

私がある支店に勤務していた時、今の妻と結婚することとなり、私の上司である

課長に仲人をお願いしました。

 

課長は厳しい人でしたが、とても面倒見がよく、私は彼に仕事を丁寧に教えて

もらっていました。

 

課長はふたつ返事で仲人を引き受けてくれました。

 

結婚した後も私たち夫婦は、よく課長のお宅に招かれ、食事をしながらいろいろ

楽しくお話しをしました。

 

その中で私の記憶によく残っているのが、課長の奥様が話したことです。

 

彼女は専業主婦でした。

 

彼女はご主人が仕事に専念できるように、身の回りのことや近所付き合い、

町内会の行事、子供の学校行事など様々なことをこなしてきました。

 

毎日の食事も手抜きしないで、新鮮なものを使って工夫して料理していました。

 

ご主人が出張の時は、着替えや、常備薬、スマホの充電器、電気カミソリなど

旅先で困らないように揃えていました。

 

そのほか彼女は、ご主人のためにいろいろ尽くしてきたようです。

でも課長はその奥様に、一度もありがとうとお礼を言ったことがなかったそうです。

 

それについて課長は、男はそんなにありがとうなんていうものではない、

こころで感謝しているのだから、それを察してくれるのが妻だと言いました。

 

課長の奥様は私たち夫婦に言いました。

 

こころで思っているだけではダメ、やはり言葉で言ってもらえるほうが何倍も

嬉しいのよと言いました。

 

私は結婚生活の先輩からのアドバイスをとてもありがたく思いました。

私も妻に、ありがとうというのは照れくさくてあまり言っていませんでした。

 

そのとき夫婦というものは、気持ちがわかっていても言葉に出してあげないと

やさしさが伝わらないんだなと私は思いました。

 

それから数か月後のことです、私が課長と同じ部屋で仕事をしていた時の事です。

突然、課長が胸が痛くて苦しいと私に訴えてきました。

 

課長は以前から不整脈の持病があり、定期的に病院に通院して薬を飲んでいた

のを聞いていました。

 

不整脈が原因で血液が固まり血管が詰まると大変なことになると知っていたので

すぐ救急車を呼びました。

 

救急車が来るまで課長の背中をさすってあげました。

そのとき苦しみながら課長が、妻に伝えてほしいことがあると、私に言いました。

 

私が何ですかと聞きましたが、そのあとは弱って言葉にならず、何を言ったのか

わかりませんでした。

 

そのあとすぐに救急車が到着し病院へと運ばれました。

私はすぐに奥様に連絡し、運ばれた病院名を伝えました。

 

彼女はすぐに病院に駆けつけました、そして無事に治療が終わることを祈りました。

私は仕事を終え、急いでその病院に行き、奥様に会いました。

 

心筋梗塞だったようです。

 

そのときにはすでに彼は、お医者さんの懸命な処置にもかかわらず、回復することは

なく、永遠の眠りについていました。

 

その後葬儀も終わり、落ち着いたころ、私は課長の最期の様子をお知らせする

ために奥様を訪ねました。

 

私は彼の最期に、奥様に伝えたいことがあると言っていましたと伝えました。

彼女は、なんて言いましたかと、私の目をしっかりと見て強く言いました。

 

私はその目を見て、思わず、「ありがとうと言っていました」と言いました。

すると彼女は、両手で私の手をしっかりと握り、ありがとうと言って泣き崩れました。

 

彼女にとって、ありがとうの言葉は待ち望んでいて、本当にうれしかったようでした。

 

私はそのとき、本当は、彼が何を言ったのか聞き取れませんでしたと言う

つもりでした。

 

でも私の気持ちがそのような言葉となって口から出てしまいました。

私が彼女に言ったことは、嘘なのか真実なのかはわかりません。

 

彼が私に、何を言おうとしたのかは神様にしかわかりません。

 

でも、私が彼女に言った、ありがとうの言葉は今でも後悔していません。

 

私は今でも、彼の最期の言葉がありがとうだったと信じています。