今までありがとう

 

ここは人里離れた山奥にある老人ホームです。

ここではたくさんのお年寄りが様々な気持ちで暮らしています。

 

ある人は施設の環境に慣れて生活をエンジョイしていますが、ある人は集団生活に

馴染めず辛い気持ちで暮らしています。

 

ここにはひとりの若い女性が働いていました。

彼女は二十歳で、この施設で働き始めて2年目になったばかりです。

 

彼女は祖父が大好きなおじいちゃん子でしたが、この施設に来る1年前に

祖父は病気で亡くなりました。

 

彼女は優しかったおじいさんのことが忘れられず、お年寄りのお世話ができる

この施設に社員として入りました。

 

お年寄りのお世話は身体だけではなく、こころのケアまでしなくてはならない

ので大変です。

 

特に若い人にとって、お年寄りのこころの理解はとても難しいのです。

 

長い人生を経験してそれなりの考えを持っているお年寄りに、人生経験の浅い

人がお世話をするのですから大変です。

 

でも彼女は、できる限りのことをして、すこしでもお年寄りに快適な生活を

してもらいたいと思って頑張りました。

 

そんな時、施設に新しく男性のお年寄りが入所してきました。

彼女はその男性を見てとても驚きました。

 

なぜかと言うと、そのお年寄りは大好きだった彼女の祖父にそっくりでした。

 

彼女は大好きだったおじいさんが生き返ってきたような気がして、とても

しあわせな気持ちになりました。

 

彼は若いころからレストランの見習いで働き、苦労して料理長までのし上がった

人物でした。

 

多くの料理人が料理長である彼の下で働き、彼の権限は相当強いものでした。

彼の指示は絶対で、彼に逆らう人はいませんでした。

 

そんな彼は現役を引退しても、家庭で家族に厳しいことを言うので、家族から

ひどく嫌われていました。

 

彼は家族に絶対老人ホームには入りたくないといつも言っていたようです。

でも、だんだん彼は身体の衰えとわがままがひどくなり、家族の負担になりました。

 

そしてある時、彼の面倒をみきれなくなった家族が、一緒にご飯を食べに

行こうと嘘をついて、彼を老人ホームに連れて行きました。

 

そして入所手続きをして、彼を施設に入れました。

後で騙されたと知った彼は、怒りで暴れまくりました。

 

彼は車いすに座ったまま怒鳴り上げ、周りの人たちは怖がりました。

あまりにもひどい時は、彼から入居者を一時的に避難させることもありました。

 

でも彼女は彼のことが、大好きだったおじいさんと、イメージが重なり、

絶対にこの人と仲良くしようと思いました。

 

他の介護職員は、彼はあまりにも自分勝手だから、ほどほどにしておいた方が

いいと彼女に言いました。

 

彼女は例え人生経験が違っていても、愛を尽くせば、かつての祖父のように

必ず気持ちは伝わるものだと思いました。

 

彼女は彼がこの施設に早く慣れるようにと懸命に努力しました。

 

しかし、大好きだったおじいさんに対したのと同じ気持ちで、親身になって彼を

愛してもこころは伝わりませんでした。

 

例え姿かたちが似ていても彼と祖父はまったく別人、彼には愛の欠片もありません。

彼のこころはまるで死んでいるようでした。

 

こころが通じない人を相手に仕事を続けるのはとても情けなく思いました。

 

彼女は限界を感じ、自分は介護には向いていないと考え、転職することに

しました。

 

彼女は最後に、転職を決める原因となった、彼にお別れの挨拶に行きました。

 

「ごめんなさい、私はあなたをしあわせにしてあげることはできませんでした、

私の力不足を許してください」と言って彼の手を握りました。

 

するとその時、彼女の愛が彼のこころに伝わったようです。

彼は涙を流して、「今までありがとう」と短い言葉でお礼を言いました。

 

感謝の言葉を素直に表現できない彼にとっては、これが最大の愛情表現でした。

彼女は最後の最後になって彼女の愛が彼に伝わったことを知りました。

 

彼のこころに愛が伝わったからこそ、それが涙となって流れたのです。

 

それから彼女は、別の仕事に転職しましたが、人生が長くても短くても、

精一杯人を愛することは必ず報われるということを知りました。