小いわしのお刺身

 

私の学生時代の友人にお魚屋さんに勤めている人がいます。

 

私は彼の謙虚で誠実な生き方が好きです。

学生時代から彼は真面目で人の面倒見のいいやさしい男性でした。

 

お魚屋さんの朝は早いようです。

毎朝、5時前には起きてクルマで仕事に出かけます。

 

夏の朝はいいのですが、冬の朝の寒さと暗さにはこころが折れそうになるようです。

そして辛いのは、仕事が終わった時の体に染みついた魚の生臭いにおい。

 

家に帰るとすぐお風呂に入って、着ていた衣類は専用の洗剤に漬けて

臭いを取り除きます。

 

そんな彼ですが、私にいつも言う言葉は、何も心配事がなく健康で少しのお金が

あれば、それだけでしあわせだと言います。

 

彼は人からよくしあわせそうだと言われるようですが、実はそんな振りをして

いるだけ、他の人と同じように心配事や悩みはあるそうです。

 

仕事が終わって彼が家に帰ると、うつ病で苦しむ、暗く沈んだ気持ちの奥さんが

彼を待っているそうです。

 

彼女はいつも睡眠不足で食欲がなく疲労感があるようで、どうにもできない

気持ちの落ち込みは彼には申し訳なく、死んでしまいたいと訴えてくるそうです。

 

症状がひどくなると追い詰められたような精神状態になり、顔つきが変わって

くるそうです。

 

本来なら家庭は仕事から解放された癒しの場ですが、重苦しい雰囲気の彼の家庭は

そうではなかったようです。

 

彼女は彼に、自分のどうにもならないうつ病に責任を感じて、離婚してもいいと

涙ながらに言ったそうです。

 

でも今まで連れ添ったのも何かの縁、見捨てるわけにはいきません、彼は人生を

かけても彼女のこころの病を治してあげたいと思いました。

 

彼は妻の涙を笑顔に変えてみせるとこころに誓いました。

 

話は彼の仕事に戻ります、彼はいろいろなお魚を調理しますが、いつも心がけている

ことは、鮮度のいいお魚を丁寧に調理して、お客さんに喜んで食べてもらうことです。

 

彼がお客さんにお勧めなのが小いわしのお刺身です。

 

小いわしのお刺身は手間がかかりますが、お財布にやさしくて、

とても美味しく、お酒の肴には最高だと言います。

 

いつも彼は、奥さんに早く元気になってもらいたいという気持ちを込めて、

小いわしのお刺身を作っているようです。

 

小いわしのお刺身の作り方ですが、たくさんの小いわしを冷水につけて冷やして、

よく洗います。

 

うつはいい加減にしてくれというこころの怒りを冷まして冷静に、そして彼女の

重く沈んだこころをきれいに洗い流すように。

 

新鮮な小いわしは触ると張りがあってぷりぷりしています。

彼のこころがいつも新鮮で、新婚当時の気持ちを忘れていないように。

 

そして包丁で頭を取って、腹から内臓を丁寧に取り除きます。

彼女がうつになった原因を見つけてそれを丁寧に取り除くように。

 

それが終わったら、親指で腹を開き、背骨が残らないように、やさしく

丁寧に取り除き、背びれも取り除きます。

 

彼のこころにトゲが残っていて、彼女のデリケートなこころを傷つけないように。

 

そしてボールの水を替えてよく洗います。7度洗えば鯛の味と言われます。

よく洗うことで青魚の臭みがまったくなくなります。

 

彼女のこころの傷を何度も何度も洗い直し、彼女のこころの傷を治すことで、

彼女の本来の素晴らしさを引き出すように。

 

最後に大根のつまを下に敷き、大葉を重ねて小いわしを乗せます。

そして生姜を添えれば出来上がりです。

 

彼女を支えながら愛してやさしく寄り添うように。

 

小いわしのお刺身づくりは奥さんに対する彼の人生そのものです。

彼女に対する熱い気持ちが伝わってきました。

 

彼は家でも彼女のためにこころを込めて小いわしのお刺身を作ります。

 

彼は妻とふたりで新鮮な小いわしのお刺身を食べながら、妻が美味しいねと笑顔を

見せる時がこれ以上ない、本当に本当に、最高のしあわせだと言います。

 

彼は彼女の笑顔を見ると勇気が湧き、生きていることのしあわせを感じるそうです。

彼の話を聞いて私は感動で涙が出そうになりました。

 

私はうつを治すには、彼が奥さんを愛することが一番の特効薬だと思いました。

 

彼の溢れんばかりの愛はきっと奥さんのうつ病を治し、彼が誓ったように、

いつかは彼女の顔には満面の笑みが戻ってくると私は思います。