世の中には鬼はいない

 

私がまだ若くて独身で、今の会社に入社して7、8年目の頃のことです。

 

本社の社員で、いつも機嫌が悪く、支店に来るとみんなから嫌われる人がいました。

その人は私の課の課長で、支店を回り、できていないところを見つけて叱ります。

 

彼は数年前に奥さんと別れて、ひとり暮らしでした。

 

社員の噂では、奥さんが彼の思うように動いてくれないので、いつも

小言を言っていたところ、奥さんは嫌気がさして出て行ったとの事です。

 

そんな彼ですが、ある日、私が出社したところ、彼はすでに支店に来ていて

私の職場をチェックしていました。

 

私は彼に、おはようございます、今日は随分早いんですねと挨拶しました。

 

彼は私の顔をチラッと見ましたが、挨拶も返さず、無表情で職場のチェックを

続けました。

 

そして報告書にびっしり改善点を書いて支店長に提出して本社に帰りました。

 

その報告書には点数がつけられていて、私はいつも平均点以下でした。

その後、私はその報告書を見た支店長からのお叱りを受けます。

 

あるとき、別の支店の、私より優秀で真面目な、仲のいい社員から電話がありました。

何事かと思うと、その社員は会社を辞めると言うのです。

 

私は驚いて、どうして急に辞めるのかと聞きました。

 

彼は仕事熱心で、自分で考えて工夫し、成果が出ると思えば自分の判断で仕事をし、

会社の決めたことを守らないことがありました。

 

そんな彼の支店に例の課長が来て、彼が努力してきた仕事をまったく評価せず、

それどころか、決まり事を守っていないと支店長に報告しました。

 

報告書の点数は0点に近いものでした。

そして課長は支店長に、部下の管理ができていないと叱責しました。

 

血の気の多い支店長は、自分が責められたことに腹を立て、彼を呼びつけ、

課長の前で「お前のような、会社のやり方を守れない人間は会社を辞めてしまえ」と

怒鳴りました。

 

彼は強いショックを受け、仕事の途中、そのまま家に帰ったそうです。

それを見た課長は、彼が悪いのだ、仕事には情けは無用と思っているようでした。

 

そして彼は退職することにしたそうです。

今ではパワハラで問題になったでしょうね。

 

私には、課長は血も涙もない、鬼のような上司に思えました。

 

その話を聞いた数日後、その課長が私の支店に来ていつものように私の職場を

チェックしました。

 

私は優秀ではないので、課長から、たくさんできていないことを指摘されますが、

それは仕方がないと割り切っていました。

 

たくさんある仕事を決められた通りにするのは、言うは易し、行うは難しです。

 

でも、私は退職することになった社員から話しを聞いたばかりだったので、

私は課長の無情な仕事ぶりには腹が立ちました。

 

私は出世などまったく考えない人間です、嫌われてもいいと思って、

 

課長に、「あなたは鬼ですか、悪いところばかり見つけて支店長に報告する。

あなたの本来の仕事は、支店の人たちが仕事がしやすいようにすることでは

 

ないのでしょうか。あなたには愛がない、人の気持ちも考えて下さい。

これではあなたに誰もついてこなくなりますよ。」とハッキリ言いました。

 

私のこころはスッキリして、澄んだ青空のように晴れ渡りました。

私も課長も同じ人間、本音で話せば、きっとこころが通じると思いました。

 

課長は今まで部下からは、誰にもこんなことは言われたことはないでしょう。

その時彼は、思うところがあったようですが、何も言わないで帰りました。

 

私は彼が帰った後、少し言い過ぎたかなと思い、不安な気持ちになりました。

 

そして1か月後にまた課長が私の支店にやって来ました。

いつものように無言で職場をチェックしました。

 

その冷酷そうな表情を見て、私は前回のことで嫌われてしまったと思いました。

そして彼は書き上げた報告書を私に手渡し、私の目を見てひとこと言いました。

 

彼は穏やかな表情で、「何か心配事があったらいつでも相談してくれ」と言いました。

私は彼の言葉に驚きました。

 

彼は寂しかったんですね。

 

彼は奥さんに逃げられ、誰も彼のことを心配してくれる人がいなかったようです。

彼には、親身になって言葉をかけてくれる人が、誰もいなかったようです。

 

それで私の彼に真剣に訴えた言葉が、こころに染みたようでした。

彼が帰った後、報告書を見ると100点満点でした。

 

誰でも愛を感じるこころはあるんですね、私は世の中には鬼はいないと思いました。