悲劇のドラマの主人公

 

私が押し入れの中を整理していると、随分前に私の親しい友人からもらった

手紙を見つけました。

 

私は懐かしい手紙を読み返してみました。

そして彼の許しを得たので私のブログに使わせてもらいました。

 

「私はこの世のなかに生き続けていいのだろうか、私は世のなかの何にも

役に立っていない。

 

病弱な母親の面倒をみるのに精一杯で、責任ある仕事も任せてもらえない。

 

世間の人は私を見て、どうしていつまでも独身なんだとだらしのない人間の

ように思っているようだ。

 

どうせ私は男性の中の残り物、いまさら安くしても女性はもらってはくれない。

独身のほうが気ままでいいとうそぶいて、陰で寂しく惨めに泣く私。

 

歳を取っても非正規雇用で家庭も持てない希望のない人間だ。

 

友人の子供が小学校に入って、彼は運動会に行ってきたようだ。

 

子供の写真を見せてくれるが、所詮他人の子、かわいいどころか自分が

惨めになるだけ。

 

いつか前は母の日だったらしく、友人が花のプレゼントを用意して、子供から

彼の妻に手渡して贈らせたという。

 

自慢じゃないが、独身の私にそんな芸当はできないし、妻も子もいない。

親として家族を養う辛さはないが、その甲斐性もない自分が惨めだ。

 

先輩に生きる意味を聞いてみたところ、「お前のように、思うようにいかない

人生こそ、涙があり、ドラマとしては見ごたえがある」と言う。

 

私は悲劇の主人公なんだろうか、なんと無責任な解答だ。

でもよく考えると先輩の言うことも一理あるかもしれない。

 

私のような貧乏人は、経済の何の役にも立たない。

物を買うと言っても、売れ残りのような処分品ばかり。

 

少しは贅沢でもして、消費の役に立ちたいが、それは夢のまた夢。

 

仕事が終わって家に帰ると、母が私に、「今日は遅かったね、背中が痛くて

寝返りが打てない、あなたが早く帰ってくるのを待ってたのよ」と

 

悲しく痛々しそうな声で訴えてくる。

 

これを聞くと、やはり私は母のために生き続けなければならないと思う。

病弱でやせ衰えた母の面倒は、私がみなくて誰がみる。

 

自分の思うように生きるのも人生、そうでないのも人生。

悔いがあってもなくても、自分の気持ち次第でどうにでもなる。

 

人が私のことをどう思ってもいいし、同情してくれなくてもいい。

 

しあわせなんて私には無縁なもの、そんなもの探しても見つかりっこない。

人のしあわせを見て羨ましがることしかできないのが私の人生。

 

先輩が言っていた、見ごたえのある悲劇のドラマの主人公として私は生きていく。」

 

手紙の文章は彼の気持ちを伝えるために、私のこころで少し書き換えました。

 

多分この手紙は夜中に書いたのでしょう、とてもテンションが上がっていました。

でも私は彼の手紙から彼の気持ちが痛いほどわかりました。

 

彼についての詳しいこととその後の彼のことを次のブログに書いてみたいと

思います。